九死に一生を得た!。 忘れられぬ東京大空襲の惨劇。

 この日は正に生死、運命の分かれ目の日となった。 

 昭和20年3月9日。 

 夕方、隅田川の西側、日本橋両国の自宅(当時豆腐店)に、父の故郷の甥の大学生2人が来訪.。 母はカレ-ライスでもてなした。
泊る事を勧めたが2人は帰らねば為らないとの事で、上野から夜行で帰郷した(結果は泊らなくて,良かったが---)。

 10時頃、気温4度、風速10m、強い北風が不気味なうなり声を上げていた。
暫くして警戒警報発令、家族は急いで電気を消した。 息を潜めてラジオを聴くべく、耳をそばだてた。

ひと時、何事も無く過ぎ、空襲警報も止んだ。  しかし、就寝して翌10日未明になってすぐ、近くで飛行機のゴォ-と言う爆音に起こされた。
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(東京大空襲直前の近所の写真。 橋は両国橋、我が家は画面下の丸印。 偶然東京の写真集に有った。)
 突如、物凄い爆音と共に、5-6機のB29爆撃機が低空で襲来、鼓膜を引き裂くような焼夷弾の空気を裂く落下音が、ヒュ-、ヒュ-と音を立てて聞こえてきた。 「空襲だ!」 父の声と共に飛び起き、急いで着物を着た。

 やや遠くで爆発音がしたかとおもう間もなく、つづいてまたB29の編隊が来襲、焼夷弾を落下。 それからは、休む間もなく次々とB29の5‐6機の編隊が轟音と共に来て、焼夷弾を、雨、あられの如く落とし始めた 。 この時になってから空襲警報がウ--ウ--と鳴り始めた。 高射砲のドン、ドンという音も響き始めた。

焼夷弾は飛行機から落とされた後、空中で破裂し、1弾が36ヶに分解して花火のように散って落ちてくる。

 落下と同時に破裂して、中の油が燃え始め、あっという間に火柱が上がる。

 父と小6の兄は3階の物干しに上がり、バケツに水を汲んで消火に備える。

暫く手伝ってから母と小2の私は地下室に入った。 防空頭巾を被り、いざと言う時に備えて身の回りの物を入れたリユックを用意した。

 すぐに父が降りて来て、「川向こうがもう火の海だ! 此方にもどんどん落ちている!逃げる用意しろ!」と叫び、又上へ上がっていった。  家は隅田川から100m位西、「薬研掘不動」の傍にあった。 川向こうは深川方面だ。 先ず本所、深川が被弾した。

 すぐに、ヒュ-ヒュ-と焼夷弾の降る更に大きな音がして、ドカン、ドカンと近くに爆弾の落ちた音、続いてパン、パンと大きな音がして、家のあちこちの窓ガラスが割れた。 

 焼夷弾は左右とも一軒おいて両隣の家に落ちた。 右の被弾した家は幼友達の家だった。

 3階の物干し台で見張っていた父から「逃げろ!」の声、母はすぐ私の手を取り「逃げよう!」と地下室の階段を上がった。

地下室の戸を開け、玄関から表へ飛び出た。 父と兄は上で飛び来る火の粉を払いながら、バケツの水で消火に奮闘し始めていた。 
当時、帝都防衛の為、バケツリレ-での消化は国で決めた隣組組織の規則だった。

 避難先は隅田川沿いに在る千代田小学校(現日本橋中学校)の講堂と決めてあった。

 外へ出たら、道はもう火の粉が飛び、風が吹き、火の嵐の通路の様になっていた。

 又もゴォ-という音で上を見たら、目の前の低空をB 29の編隊が南から飛んできた。 機関銃とえい光弾の光が尾をひいて飛ぶのが火で明るくなった夜空に見えた。 目にハッキリと長い筒のような焼夷弾が雨のように降って来るのが見えた。

 目に飛び込んで来る火の粉を払いながら、角を二つ曲がり、家から200mほどの小学校の門から講堂に走った。

 講堂には既に半分ほどの避難民が入っていたが、次から次と人が逃げ込んで来て、あっと言う間に満員になって来た。

 殆ど同時に、又もパン、パンと、大きな音と共に講堂の窓が割れ、火の粉が風と共に講堂の中にド‐ッと入り込んで来た。

 「講堂に火がついた!」  叫び声を合図に母と私は横の扉から皆と共に校庭に出た。 講堂は道一つを隔てて隅田川に面していた。

 しかし校庭は隅田川からの風に乗った火の粉がL字型の校舎に当たり、渦を巻くように校庭に集まり、熱くて居られない。 校舎の窓がパン、パンと次々に破れ、そこから赤い炎が噴き出してきた。
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 すぐ校庭を出て、両国橋麓から100m下の隅田川岸で、干潮時に川底に下りられる階段のそばに、しゃがみ込み火の粉を避け頭巾を被って母と共に地に伏していた。 

(廃墟と化した千代田小学校。 手前の瓦礫の左あたりが我が家だった。)
 幅200mほどある隅田川の川面は,北の向島、北西の本郷、東の深川方面から、折からの北北西風に煽られ、大きな火の粉が飛び、恰も川が風と火の通路のようになった。  その間もB29の編隊が次から次と襲来してきた!
 
 しかも、木造家屋の多い本所、深川、向島は真っ先に焼夷弾を落とされ、家々は火柱を上げて燃え、その火風が此の方面の多い運河を通り、火勢と風とで風速2,30mの火の海となって南西に向かったからたまらない、隅田川の両岸の家々は丸こげとなり、地表も白熱状態で、暫く歩く事も出来ない位になった。
母と私は 川岸に伏せている以外動きようが無かった。
  
 川に入れば助かると思って隅田川を始め本所、深川の運河に入った人人は、川面に吹きつけた火風で窒息死し、船に逃れた人も、船(当時は殆ど木造船)が次々と総て焼かれ、溺死などで川を埋め尽くすほどで、やはり悲運となった。 

 橋に逃れた人々は、両方からの避難民で身動き取れなくなり、多数が折り重なって死に、特に言問橋では1000人近い人々が無念の死となったという。 

 此の夜は、子供でも流石に一睡もできず、夜が明けても、煙と残り火があちこちに漂い、身動きできなかった。
川岸で動かなかった事が幸いだった。  若し、慌てて動き回っていたら、生き残れなかったろう。

 この日、下町を中心に落とされた焼夷弾は約2時間半で12000個、だったという。

 長い恐怖の一夜だったが、ようやく昼近くになってから、燃え尽き、焼け野原となった周りの火が収まり、風も止んだ。

 昼頃になってから、ようやく焼けなかった人形町の父の妹の嫁ぎ先の親戚の家を目指して、母と歩き始めた。

 途中、もう総ての建物、家が焼け焦がれ、燻ぶり、人間が丸焦げになってそこらじゅうに転がっている。

 まったくの地獄の焼け野原の様だった。  浜町の明治座も丸焼けで、脇を通ったら黒焦げの死体が重なりあっていた。  明治座は我が家からは700m南にあったが、そばの隅田川沿いに浜町公園があり、そこが空襲が激しくなってきたので高射砲陣地として使われたため、狙われて攻撃されたあおりを食い直撃を受けたという。
 後に聞いたが数百人が此処でも焼け死んだと言う。
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 此の焼け野原を歩きながら目撃した、炭化した悲惨な物々の光景だけは、何時までも鮮明な映像として瞼に残っている。

 
 歩く所を拾いながら、2時間ほど歩いて、ようやく、幸いに焼けづに奇跡的に残っていた人形町の親戚にたどり着いた。
 
 人形町も半分ほどは焼かれていた。
 

 午後遅くなって、行方不明だった父と兄が此処えたどり着いた。 
 会ったとたん、母はホッとしたのだろう、ワッ‐-と泣き崩れた。  

 父と兄は、暫くバケツリレ‐で消火作業に当たっていたが、火勢が強くなったので諦め、待ち合わせの小学校が燃えていたので、暫く必死で回りを探したがみつからづ、やむをえず自転車に積んだ身の回り品と、兄を載せて、懸命に漕いで、家の前の道をまっすぐ西へ行き、安全と思った皇居のお堀端へ避難し、そこで一夜を明かしたと言う。

 父は「家の前をまっすぐ西へ行くと皇居に突き当たる。 天皇陛下のお膝元だ。」と言うのが自慢で、独立した時、日本橋両国の、かって薬研掘りと言われた、水の良いこの場所を見て、すぐ気に入って、此処で店を開いて成功していた。

 しかし、「天皇のお膝元だから大丈夫」と言う意識が、結果としては裏目に出て、資産を一切疎開せづにいた為、一代で築いた資産を、殆ど総てを、此の空襲で失ってしまった。 

 この夜の都民の死傷者数は、12万4、700人、27万戸の家が焼かれ、約100万人がその住居を失った。

 家族が離れ離れになった人々、親を失った子供達も数知れない。 親を失った戦災孤児は12万4000千人に達したという。上野駅の地下道にはそれらの人々が、着の身、着のままで、戦後までも長く寝泊りした。

 戦後、暫くそれらの人々のために「尋ね人」という番組がラジオであり、又親を失った子供たちの為に戦災孤児収容所が作られ、其処のシンボル「緑の丘の赤い屋根」で始まるメロディで「鐘のなる丘」という勇気づけの番組もNHKで放送された。

 この日にマリアナ基地を飛び立ったB29 は、325機と言う空襲始まって以来の大編隊、合計1700トンの高性能焼夷弾を東京浅草、向島、深川、両国という下町地区に落としたという。
 広島、長崎の原爆と共に東京もまた大惨劇の地だった。

 他にも、その後日本各地で、空襲の惨禍を受けた所は沢山あリ、多数の民間人の犠牲者が出た。。


 2‐3日、人形町に居て、取り合えづ母の故郷である群馬県館林へ、ついで太田市(当時は町)の村の、農家の小さな家を借りて移り住んだ。


 何よりも、裸一貫で、田舎から東京へ出て、修業して独立し、日本橋で有数の豆腐屋として、従業員4-5人を使い、味の良さで、両国、柳橋、浜町の料亭、しのだ寿し等に納めていた店を、69歳で突如失なッた父の落胆は大きかった。   

 蓄えや保険も、すぐ始まったその後のインフレで価値が一気に目減りし、又生活の糧となる店、設備を失なった上、不慣れな土地で、稼ぐ手立てを得づ、手持ち資金は生活苦で間もなく使い果たした。 

 此の時、父69歳。 母50歳。 長男はフィリッピンで既に戦死、次男は兵士としてグァム島で生死不明、長女、次女は嫁ぎ、三男の兄は小学校6年、私が小学校2年。

 家、店、財産、長男を失い、此時から敗戦前後と、戦後に至る長--い苦難の貧乏生活が始まった。

 毎年3月10日が来ると東京大空襲の特集が新聞、テレビに組まれる。 
 それらを読むたび、聞くたびに胸が痛む。 

 今なお沢山の肉親を失った人々がつらい思いを抱きながら生き抜いている。

 我が家も毎年、あの最後の日の夜のカレ-ライスで、複雑な思いを馳せる。
 
 何故このような事を招いたのか?  再発を防ぐ為に、子孫に、たどった過ちを出来るだけ正しく伝えなければならない。

  此の戦争での悲劇は日本の数千万人にも及ぶ人々に多くの不幸をもたらし、戦禍は、他国の人々にも及ぼした不幸も数え上げれば、キリが無いほどにある。

 日本国民として、絶対に忘れてはいけない教訓だ!

 人類は幸福を求め、悩み、考え、試行錯誤しながら、いろいろな「主義、主張、組織、体制、宗教、システム、など」を産んで来た.。

 しかし、歴史に学びながらも、今なお、それらが逆に不幸をもたらし、世界各地で多くの悲劇を生んでもいる。  

 コソボや中東の争いにしても、今回の金融システムの崩壊にしても似た様なものだろう。 

 人生に於いて、最低2~3度は信じられないほどの天災、人災の大惨事に遭遇するようだ。  最近は色々な面でグロ-バル化が進み、経済問題を含め、世界的な人災の起こるケ-スが増え、2~3度どころか5~6度にもなりつつある。
 
 少しづつ、少しづつ--は進歩している事を信じながら、過ちを繰り返さないように、明日を見よう。
 
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この記事へのコメント

ニカウ
2020年06月10日 14:54
戦後25年後に生まれ、ずっと東京で育った私にとって東京大空襲とは異世界で起こった他人事のように感じていたのかも知れない。昭和20年に入ってから頻度を増した空襲、3月10日はもちろん、次いで被害が大きかった5月25日などの写真資料を目にするたび、まるで切り離された事実のように、同じこの場で起こったこととして理解することができずにいた。そして見事に生まれ変わった都市の姿もそれを手伝うように事実を遠ざけていく。それらの事実は並行にどんどん積み重なり交わることなく地中の彼方に埋もれていってしまうのだ。 
しかし、体験者の証言というのは分厚く積み重なった事実を凄まじい勢いで串刺しにし魂が震えるほどに立体的なイメージを与えてくれる。その証言の一つ一つは漏れなく悲痛に満ちており知れば知るほど、まるで現実を垣間見れるぐらいの"記憶"として我々に残してゆく。
ニカウ
2020年06月10日 15:09
あらら校正前に投稿しちゃった(汗)

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  • フェラガモ バッグ

    Excerpt: 九死に一生を得た!。 忘れられぬ東京大空襲の惨劇。 フランクの感動雑記帳/ウェブリブログ Weblog: フェラガモ バッグ racked: 2013-07-03 17:43